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俳人・正岡子規 ゆかりの地
俳句を愛するまち、愛媛県松山市

2022/1/20
(提供元:SAGOJO編集部

瀬戸内海に面し、年間を通じて穏やかな気候で過ごせるまち、愛媛県・松山市。

日本最古の名湯といわれる道後温泉や、蛇口からみかんジュースを体験できるみかん大国としても知られていますが、文学の聖地でもあります。夏目漱石の盟友・近代俳句の祖としても名高い、正岡子規の文才を育んだ地でもあるのです。

リフト

「この先、足元にことばの落とし物があります」。

松山城に向かうリフトの足元や、街灯に取り付けられたタペストリー、行き交う路面電車から次々と投げかけられる言葉のバナー。さらに、街には至るところに俳句ポストも設置されています。毎年開催される俳句甲子園など、現代も俳都の面影が色濃く残る、松山市。

昭和41年に同市で始まった俳句ポストは、平成22年から小説『坂の上の雲』ゆかりの県外の10都市にも設置され、現在は欧州連合(EU)の首都ブリュッセルや台湾・台北市など海外でも日本の俳句文化の発信に一役かっています。

そこで今回は、松山市に残る正岡子規とのゆかりの地を紹介します。

正岡子規と松山市

正岡子規と松山市

松山に生まれた正岡子規は少年時代から漢詩や漢学に親しみ、友人たちと回覧雑誌の制作を手がけました。

子規の暮らしていた松山では、元禄時代に四代藩主・松平定直が松尾芭蕉の門弟・宝井其角に入門したことから、上級武士や御用商人も交えての文芸が盛んでした。地域の人々が広く俳諧の腕をこぞって磨く文化的な土壌があったおかげで、江戸時代から河東碧梧桐、高浜虚子、寒川鼠骨といった才能溢れる文人たちがここ松山から多く輩出されたとも言えます。

その後、自由民権運動の影響を受けた子規は“政治家になりたい”という思いを抱き、東京で勉学することを決め、上京します。

市内の正宗寺敷地内にある「子規堂」には、15歳まで松山に住んでいた子規の直筆資料が展示されています。子規の勉強部屋を再現したコーナーには、子規の勉強机が置かれています。敷地内には当時日本に導入されたばかりの野球に関する句碑もあり、少年期から青年期にかけて野球に没頭した子規の情熱も垣間見ることができます。

子規堂
住所:愛媛県松山市末広町16−3

夏目漱石との出会い

夏目漱石との出会い

森鴎外とともに明治の二大文豪として知られる夏目漱石と、正岡子規が出会ったのは22歳の頃でした。二人は寄席という共通の趣味を持っていたことも相まって、徐々に親交を深めていきます。夏目漱石は大学卒業後英語の教師に、一方正岡子規は大学を中退して新聞『日本』の記者として別々の道を歩んだものの、漱石が松山の中学校に赴任した年に二人は52日間の同居生活を送りました。この時期子規は漱石の下宿先で松山の俳人たちと連日句会を開いていました。

日清戦争に記者として従軍した子規は戦争の帰路に喀血し、病床に伏しながらもその後亡くなるまでの間に精力的に近代俳句の革新に挑みました。

松山ゆかりの二人の文豪の親交はその後も子規がなくなるまで続きました。子規は漱石の漢文や漢詩の才能に惚れ込んでいたと言われていますが、一方の漱石もまた子規の抜群の行動力に敬意を払うとともに、長く病床に臥していた友に留学先からも手紙を送り、終生気にかけていたことが感じられます。

正岡子規の晩年

子規記念博物館

壮絶な闘病生活ののち、34歳の若さで亡くなった子規。しかし、約2万5千句もの俳句を残しました。

また子規は、俳句だけではなく短歌の革新にも取り組みました。当時の伝統的な歌壇を真っ向から批判した『歌よみに与ふる書』はセンセーショナルな話題を呼びます。こうした多方面にわたる子規の業績は、近代文学の革新者としての子規の地位や評価を不動のものとしました。

松山市内にある「子規記念博物館」には、七万点近くの正岡子規に関する資料などが収蔵されています。幻と呼ばれた子規自筆の選句稿『なじみ集』、歌稿『竹乃里歌』、随筆原稿『病牀六尺』の一部などが展示されており、子規を通して文学について理解を深めることができます。他にも、子規関係の書籍や関連グッズ、俳句、短歌など郷土関係の書籍も充実しています。

子規記念博物館
住所:愛媛県松山市道後公園1-30

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